20040414句(前日までの二句を含む)

April 1442004

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

語は「山吹」で春。山道だろうか、それともコンクリートで舗装された都会の道だろうか。どちらでもよいと思う。いずれにしても、一枝の山吹が「ちぎり捨て」られている情景だ。しかし作者はそれを見て、心無い人の仕業に憤っているのでもなければ、可哀想にと拾い上げようとしているわけでもない。そうした感傷の心は働いていない。ただただ、打ち捨てられている山吹の生々しさに、少し大袈裟に言えば息をのんでいるのである。「花と葉と」というわざわざの念押しに、瞬時かもしれないが、凝視する作者の様子が重ねられている。このとき、たとえ近くに山吹の花が咲き乱れていようとも、最も存在感があるのはちぎり捨てられた花のほうだろう。木から落ちた果実だとか、巣からこぼれた雛だとかと同じことで、本来そこにはないはずの事物がそこに存在するときに、それらはひどく生々しく写り、思いがけない衝撃を私たちにもたらす。ときにそれらは、生臭いほどにまで生々しい。句は淡々とした写生句ながら、いや淡々と詠まれているだけに、逆に捨てられた山吹の生々しさがよく伝わってくる。主観や主情を排した写生的方法の手柄と言うべきか。作者とともに読者も、しばしこの山吹を凝視することになるのである。爽波は、初期に「写生の世界は自由闊達の世界である」と言った人だ。掲句では捨てられた山吹だけを写生しているわけだが、そのことによって、なるほど自由闊達な広い世界へと読者を誘っていく。俳句手法の持つ不思議なところでもあり、不可解なところでもあり、また魅力的なところでもある。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます